映画やドラマで黒人を主役にしたり、黒人でリメイクする理由

※今時は『アフリカ系アメリカ人』とかの呼び名が正しくて『黒人』とか言うなとか、いろいろあるかもしれないけども、今回はとりあえず分かりやすく書いてます。

そして身も蓋もないストレートなタイトルですけども、今回は単刀直入になんで黒人を使うかです。主にアメリカの話。

まあ昨今の、リメイクとかリブートとか言って古い映画やドラマを焼き直してるのは、単にネタ切れで手っ取り早く過去の人気作にあやかりたいって理由が透けてる場合も多かったりする気がしますけど。その際にオリジナルでは白人男性がやってることが多い主人公が黒人主人公に変わったりして、それで保守的な人に何かと言われたりって件についてです。偉そうに語ってみてるけど、今回の話はアメリカ人の受け売りです。

私も「どうして過去のドラマとかを黒人でリメイクすんの?」「それアメリカ人はどう思ってるの?」ってぶっちゃけたことをアメリカ人に聞いてみたことがあるのだ。その答えが今回なので、『※個人の見解です』って面もある点をお断りしておきます。

The Equalizer [2021- CBS] 早速1話を見ましたよ

まず最初に結論から言うと、なんで黒人役者を使うか。売れるから、です。

今風にアレンジする時に『有色人種』やら『性的マイノリティ』やらに『配慮』することで、該当する弱者な立場の人たちやリベラルな人たちが支持して見てくれるから。映画もドラマもビジネスで作ってるわけなので儲からないと続かない。

ただし「売れるから」って言い切るのには語弊がちょっとあって、反対にそういうのを作らないと「売れない」ってわけでもない。ただ今時の創作にしては配慮が足りないって思想的に『支持されない』――だけでなく『叩かれる』こともある。特にリベラルな人たちに。

何かとウゼエと批判的に言われてるポリコレも正しくは『ポリティカル・コレクトネス(political correctness)』で、直訳すると『政治的正しさ』とか『政治的妥当性』とか小難しい感じですが、元はナチスとか共産主義者への批判に使われてたらしい。今はだいぶ変わって来てますが、大雑把には差別・偏見をなくし中立的な表現を心がけようって意味です。日本で看護婦が看護師になったのもポリコレです。アメリカの場合、ポリコレを求めるのはリベラル・左側の人たちなので、右側の保守的な人たちはこれを批判に使うとかの対立にもなる。

 
さてその『ポリコレ』に乗ると、従来通りのハンサム白人男性がモテモテ無敵のヒーローで美人白人女性がヒロインでサポートする役で有色人種は脇役――みたいなやつは正しくない。『今の時代に合わない』ってなって、制作側や役者にもネガティブな印象がつく。スポンサーもつかなかったり。だから作る側は大金かけて製作するわけだし、役者も自分のイメージを守りたいわけだしで、やっぱり『今の時代に合ったもの』を作ろうとすると。

そういう点ではやっぱり『配慮』って言い方がしっくりくるんだけど、それを『圧力』として受け止めて「ポリコレウゼえ」って言う人が出てくるのもまあわかる。ただ一方でこれは、特にアメリカの歴史が関わってくるので日本人には理解が難しい点もあり、日本には独自の創作文化があるので、そのまま受け止めきれないって面もある。

※オリジナルのファンとしてもちろん全部見ましたよ。

    

 

アメリカの歴史と贖罪の背景

歴史って、今回の件で指してるのは言わずと知れた奴隷制の歴史です。アフリカから黒人を奴隷として連れてきてこき使ったり、気に入らないと殺したり散々差別して来たって話。日本でも世界史とかで習いますけど、アメリカで具体的な話とか聞くと正直ドン引きするようなひどいのがたくさんあります。しかも割と近年まであったりする。公民権法が成立したのも1963年でまだ60年も経ってないし。

あまりにもひどい印象的な事件は後に創作化されたりもしていますが、有名なとこだと、公民権運動の活動家が殺された件を街の人たちが隠してた事件をもとに『ミシシッピー・バーニング(Mississippi Burning)』って映画が作られたりとか。これは当時のマイノリティ同士のアフリカ系とユダヤ系が共闘してた部分にも触れられてる。

 
他にもアメリカで電気椅子で死刑になった最年少は14歳の黒人の子なんですが、この子は2人の白人の女の子たちを殺した容疑でほとんどまともな裁判もないまま執行されて、一方で白人男性の真犯人の疑惑がずっと語られてたり(逃げ切った)。この件は遺族と、改めて事件を調べた人たちのおかげで近年に死後70年も経って有罪破棄判決が出ています。今更そんなこと言われても死んだ人は戻らないってモヤモヤは残るものの…。

この事件もアメリカでは有名で何度もドキュメンタリー化されたりフィクションで引用されたりしてるそうな。映画化もされたスティーヴン・キングの『グリーンマイル(The Green Mile)』のキャラクターの原案になってるとも言われてる。だいぶ改変されてるけども。

70年前に処刑された14歳のアフリカ系アメリカ人少年、再審で死刑判決が破棄される
https://www.huffingtonpost.jp/2014/12/20/george-stinney-exonerated-70-years-after-wrongful-murder-conviction-as-14-year-old_n_6358826.html

警察はベティーさんへのわいせつ目的で殺害したと自白したと主張していたが、供述書は裁判記録に残されていない。

2時間の裁判、10分間の陪審員の評議で、スティニーさんは死刑判決を受けた。

サウスカロライナ州地裁のカルメン・ミューレン判事は17日、スティニーさんへの死刑判決を棄却した。判決文の中で、「法を適正に運用する上で重大な憲法違反があった」と述べている。

 
こういう乱暴な歴史も、当時の価値観ではそれが『当たり前』だったわけですけど、公民権運動とかで戦った人たちがいて、今では『間違った歴史』になって、アメリカ人はそれを反省しているという前提があります。マトモなアメリカ人は、過去の黒人差別を『恥ずかしい歴史』として罪悪感を覚えてる――という前提よ。もちろん個別には「差別上等じゃ!」って人もいるでしょうが…。

 
ともあれ建前としてはその前提があるから、古い間違った価値観の本や創作を発禁にしたり、学校とかでもあの時代はよくなかったって正しい価値観を教えようってなってたりもする。なので創作においても、反省に基づいて現代の正しい価値観で描くのがアメリカの創作の使命になってる面もある。そしてリベラルな人たちも、過去への反省を示すために『黒人を差別しない話を支持する』わけ。

    

 
更にこの『歴史』の話を突き詰めると、黒人を迫害してきたのは誰か。白人(男性)だってのも認識されてきてる。白人(男性)は特権階級だって価値観ね。

まあこれも実際は全然恩恵なんて受けてない人も大勢いるわけで、「そんなはずあるか」って思う人も大勢いるだろうけどさ、そういう人たちが保守としてポリコレアンチになったりしてる面もあるけどさ、実際に白人男性が社会を作ってトップに立って権力を握り続けてきたからそれを是正する必要があるって、フェミニズムも加わった、そういうヒエラルキーが今の正しい歴史認識なわけなので。

創作においても、昔みたいに白人男性が強くてモテモテなヒーローは駄目だって二重の意味でなるわけよ。一昔前は『それが売れるテンプレ』だったから、みんなハンサムの白人役者を主人公に起用したわけなんだけども、今は売れるテンプレが変わったって言い方もできる。

 

歴史を正すために『上書きする』

さて前提が分かったところで、『元は白人キャラだったはずの人を黒人にする』『白人主人公を黒人でリメイクする理由』です。これはそのまますぐ上に書いたように正しい歴史認識に直すためです。どういうことかというと。

今度の新作映画は黒人役者が主人公です。

みたいな記事を読んでどう思うか。「なんで主人公が黒人なんだよ?ポリコレ?」って思った?それは差別ですってこと。

「白人男性が主人公です」って言われても『今更フツー』のことだから「なんで?」って思わないのに、黒人だと「なんで?」って思う。女性だと思う。アジア人だと思う。――これらは全部、白人男性が主人公なのは当然だけど、それ以外はおかしいって刷り込みができてます。

白人男性が主人公の話以外に違和感を感じるのは、偏見です。というロジック。

 
なのでその偏見をなくすため、同じキャラクターを別の人種、属性の人が演じて上書きするの。これまで白人男性がキャスティングされてきたフツーのアメリカ人の主人公を黒人・女性・マイノリティが演じる。

そこに理由がいるかって言ったらいらないの。だって白人男性が主人公の映画で白人男性であることに理由って必要だった?ってことよ。

これはあくまでアメリカのハリウッド映画やドラマの話なんだけど、今まで当たり前とされてきた主人公の属性が『特権』であり、偏見につながるって今は考えられてる。その偏見をなくすため、刷り込みを上書きするため、虐げられてきた弱者が強者である白人男性と同じ立場に立つために、同じキャラを演じるの。だからリメイクするの。

というのが第一段階。

 
今は黒人主人公の話も「ポリコレまたかよ」って文句言う人も含めてだんだん『当たり前』に根付いてきた。白人男性主人公と同じように『売れる』ようになってきた…、かどうかは分からないけども、ともかくヒット作も増えてきた。そうすると新作でも、今まで当たり前のように白人男性が主人公だった話に黒人や女性が割り振られるようになってくる。

とは完全に言えなくて、まだ黒人主人公の新作は周りも黒人だらけとかで舞台が限られてたりするね。キャラクターが黒人である理由を作るために差別ネタが出てくることも多いし。かつての白人男性の主人公みたいにフツーのアメリカ人として理由なく設定されてるとまでは行ってない。

今は啓蒙の段階なので、差別はよくないって点で差別と闘うエピソードとか出てきたりもするけども、いずれはそんなネタも必要なく、黒人女性が主人公であっても誰も不満言わない世界が理想ではあるんでしょう。

 

日本産まれ日本育ちの純日本人には理解が難しい視点

少年漫画と少女漫画。アニメ。多くの日本人は子供の頃からフィクションに触れる機会があります。大人になっても現代物、歴史物、SFとあらゆるジャンルが網羅されてる。小説も女性作家が平安時代から活躍してきたわけで、女性向けや女性主人公もいる。

だから女性が悪党と戦って活躍するヒーロー話もあるし、反対に男性向けのうじうじ恋愛物語もある。なので男性ばかりが主人公みたいにアメリカほど偏ってもいないし、男性にマッチョなヒーローばかりを求める画一性もない。

 
人種に関しては日本は実際にもほぼ同じ人種ってこともあってバリエーションはないけども、それ故に逆に、アジア人である日本人が主人公だったり、悪役にもヒロインにも脇役にもアジア人がなったりするし、そこに違和感ある人はいないと思う。

そんなの当たり前だって?そう。無意識に当たり前だと思ってたから、この点はとっても恵まれてたから、だから私もアメリカのポリコレが理解できてない面もあった。

アジア人を含む有色人種、女性とかが創作で主人公として活躍してるのは当たり前じゃないってこと。アメリカでは。

 
ゲームとかアニメとか海外進出前提の作品は人種とか多様化させてるけども、日本の創作は基本は日本人が作ってる日本の話だから登場人物もアジア系(というか日本人)がデフォだったりしますよね。物語に日本人しか出てこないのはフツー。けども昨今はハリウッドのネタ切れの延長か日本の創作もアメリカで映画化されたりドラマ化されたり。そして当然のように、黒人主人公に変えられたりします。

そして日本人は「ブラック・ウォッシュだー」って文句言ったりしますが。「自分で作れよー」って言ったりしますが。どうでもいい話としては、英語ではBlackwashよりはBlackwashingって言い方するみたいですが。

 
まず白人が演じる『ホワイト・ウォッシュ』だと文句言わないどころか喜ぶのに、黒人が演じると文句言うって点はある。ここは差別と刷り込み的な部分だから、是正されるのは正しいことかもしれない。まあ私も偉人が女体化改変されてたらやっぱり違和感あったりするので、イメージと違うのを批判したら「差別です」ってなんでも差別扱いされるのもよくないという点は認めるけども。

 
「自分で作れー」に関しては、アメリカでは黒人主人公でヒーローな創作がようやくできてきたばかりの段階で、過去にはほとんどないのよ。クリエイターは育ってきてますけども、長いこと差別とか不遇で黒人のクリエイターはいても手柄を奪われたりなかなか表に出てこないハンデもあって、元々少ない上に商業ベースに乗るのもようやく最近って感じ。

創作とかの剽窃もまたこれだけで1テーマになりますけど、アメリカで文化の盗用がやたら言われるのも、黒人差別の歴史がある。

プレスリーのデビュー曲とかさ、黒人が作ったブラックミュージックを白人が歌うとヒットしたりとか、『The Angels’ Share 天使の分け前』って映画のとこでも黒人文化とお酒の話はちょっと書いたけど、アメリカで最初に蒸留したのはアフリカの手法を使った黒人奴隷だったけど、そのレシピを元に売り出したのがジャック・ダニエルだとか。先行者の黒人は利益がほとんど得られずに結果的に肝心なところは白人に搾取されてしまうのくり返しになってしまう件とか。


※『enslaved=奴隷にされた』。日本のサイトだと牧師にならったってなってるけど、英語版だと牧師の下で黒人奴隷にならったって訂正されて、今はその彼がマスターディスティラーだって認められてる。

日本語で詳しく説明してる記事。
150年前、ジャック・ダニエルにウイスキーの作り方を教えたのは黒人の奴隷だったことが判明
https://tocana.jp/2016/07/post_10288_entry.html

そして会社HPにも掲載されている公式ストーリーでは、このウイスキーのレシピは蒸留所のオーナーだったダン・コールという牧師が、若きジャック・ダニエルに教えたことになっている。

しかし実はこの公式ストーリーには隠された事実があることが、最近明らかにされた。レシピをジャック・ダニエルに教えたのはコールではなく、黒人奴隷のニアリス・グリーンだったのだ。創立150年の今年、ジャック・ダニエル社はこの事実を公に認めた。

 
今の黒人優遇は今までそうやって奪われてきたものを取り返している面もあったりするので、日本人にはアメリカの歴史の背景は直接は関係ないわけだけど、生まれた時から彼らの人種は差別されてきてアニメやドラマでも脇役ばかりで主役になれずに来たって思えば可哀想な面を同情もできるかなと。
 

クレイジー・リッチ!(字幕版)

メインキャストがアジア系の役者だけって点が評価された
2018年のハリウッド映画。

そしてこれは黒人だけでなくてアメリカの他の有色人種にもあって。オールアジア系のハリウッド映画『クレイジー・リッチ!(Crazy Rich Asians)』の話を別のページで書いたことあるけど、アメリカのアジア系の人には「この映画見たことある?」って聞かれたし、こういうアジア人が主役の映画を彼らは喜んで応援してるわけよ。オールアジア系をね。

けどこっちからしたら、日本のドラマも映画もさオールアジア系がフツーなのでむしろ見飽きてて、洋画にはそれ以外を求めたいって本音もあったりして。ハリウッド映画でアジア人見たいか?って本音よ。実際日本やアジア圏ではそこまでオールアジア系は評価されてないというか、それがなんだよ的な評価だったし。

その辺のギャップも、アメリカで生まれ育ってきたアジア系の子たちは自国のドラマや映画見てもいつも白人が活躍しててアジア系は脇役の秀才やオタクやテンプレ的なキャラばかりで劣等感を覚えてたって前提に気付くとさ、今回初めて主役として白人と同じ立場になれたって点を考えると、よかったね!ってなるでしょ。逆に見飽きるほどアジア人がヒーローヒロインモテモテ無敵主人公の話を見てきた日本人は恵まれてるってなるでしょ。

ただ日本の創作もこの先に日本に移民が増えれば人種にバリエーションが増えるだろうし、海外も黒人作家が増えてきたらオリジナルの黒人キャラを彼らが描く機会が増えるかもしれない。

 

とはいうものの『完璧な正解』はない

今まで理由なく主役に抜擢されて優遇されてきた白人(男性)の特権を奪い返すため、黒人や他の有色人種やマイノリティが主役をやるようになった。その件の説明は上の通りですが、それが正しい今の価値観と呼ばれてはいますが、明確に基準が定められてるわけではありません。なので今は黒人優遇が主流なので、アジア系とか他のマイノリティの役を彼らがやることもあったりして「ブラック・ウォッシュだー」って言われたりもするわけで。

「原作が黒人なら黒人役者を起用する、ゲイとかマイノリティならマイノリティを起用するのが正しいです」という流れになって来てますが、一方では、「この時代に黒人の権力者はいなかった。実在の人物は白人なのに映画化で黒人に改変するのは歴史改変だ」という意見も出てきます。歴史認識を正しく表現することが『正しい』なら、史実通りに白人だらけで表現するのが『正しい』じゃんと。

それに対して「今まで白人が理由なく抜擢されてきた流れをやり返してるんだから」って答えるわけですが、すると今度は「自分たちがやられて嫌だったことを他のマイノリティにするのか」って対立になる。実際なってるよね。ポリコレバトルとか揶揄されてる。

 
これは「ポリコレとは○○すべき」みたいな具体的なマニュアルがあるわけじゃないし、『正しさ』はそれぞれ違うのでブレる。映画やドラマとかの創作の場合は、制作側がどこにポイントを置くかでも変わってる。

「フィクションだから、実際はこの時代には黒人はいなかったけどバンバン出すぞ、だってフィクションだから」みたいな意図で作られた作品もあるし、真面目に歴史的事件を映像化したいからリアリティを極めたいって作品だと割と史実通りのキャラ配置になってたり。それで「黒人がいない」って怒られたりはするけども、何を表現したいかで筋は通してる。

 
更には制作側が『マイノリティに配慮』して『正しさ』を求めて作った作品でも、完璧じゃなくて叩かれることもある。上で挙げた『クレイジー・リッチ!』もさ、シンガポールが舞台でオールアジア系で作ったわけよ。けど役者が中華系(東アジア顔)ばかりでさ、「実際のシンガポールはマレー系とか他のアジア系もいるのにー」って批判も出たんだそうな。そこまでこだわるかって感じもすれば、まあリアルにこだわるならそこもこだわるべきだったよねって感じもする。

というように何しても叩く人はいるって言っちゃうと見も蓋もないけども、正しさの基準がひとつじゃないので、あちらを立てるとこちらが立たぬでいくらでも批判はできてしまうと。今は過渡期なので、試行錯誤でこの先はいろいろと大きな流れになっていくのかもしれないけどね。