2月はアメリカでは『Black History Month』つまりアフリカ系の歴史を学ぼう週間だったそうで。日本語にすると『黒人歴史月間』ですか。黒人て言い方もよくないとか昨今は言われてますけど。2月だけじゃなくていつも考えろ!ってもっともなご意見があったり、企業がマーケティング的にアピールしたりと商業的に使われるばかりだったりするので、アフリカ系の人でも批判してる人もいたりするようですけど。
まあそんな賛否はありますが、せっかくの機会というわけでハリウッドのブラックヒストリーに欠かせない(らしい)古い映画を見せられ…いや観る機会があったのですが、もう3月だよと。ちなみには3月は3月で『Women’s History Month(女性歴史月間)』らしいけども。←国によっても違うそうでこれはアメリカの場合。
というわけで今回のこの映画『Imitation of Life』は元は1934年の映画です。戦前です。勿論生まれてませんとも。そっちの邦題は直訳の『模倣の人生』で、今回の1959年版はリメイクで邦題は『悲しみは空の彼方に』というらしい。私は英語版で見たのでどちらもタイトルは同じだったのだけど、両者は娘の名前が違っていたり、細部の設定に違いがあるらしい。
あらすじは下に書くとしてざっと言うと、この話は白人の母娘と彼女の元に居候することになった黒人母と白黒ハーフ娘の物語です。そこの色の差が話のポイントなので、今回は分かりやすく黒人と白人て書きます。ハーフも今は差別なのでミックスが正しいとかあるらしいですけど、とりあえず細かいところは許してね。
白人母娘と仲良くなって白人母が成功しても黒人側は一貫して召使い――とか正直、この映画自体も今見るとナチュラルに差別的だったりツッコミどころも多いんですが、まあその辺はこれが作られた時代がポイントなわけで。
1960年代まで続いた人種隔離政策『ジム・クロウ法』とか『公民権運動』下の中でオリジナルもこのリメイクも作られてることとか、白人と黒人の友情とか、この時代に白人が黒人を対等に扱っている話が評価のポイントらしい。とはいえ立場の差があからさまなんで、それ対等か?ってモヤモヤはあるんだけども。
まあしかし今の時代にこれを見るってことは、こんなレベルですら対等と言われていた過去よりも今の方が対等だし平等だよね、少しずつでも前進してるよ、と認識し直す意味でもいいことかと思います。
完全ネタバレしてるあらすじ
混雑した海水浴場で迷子になった娘スージーを探す未亡人で売れない白人女優のローラは通りかかった白人男のスティーブに協力を頼む。そして見つけたスージーは黒人のアニーと白人に見えるサラ・ジェーンと一緒にいる。アニーはサラ・ジェーンのメイドかと思ったローラが尋ねると娘だと言う。
スージーを助けてくれたお礼に狭いニューヨークのアパートの物置小屋に身寄りのないアニーたちを居候させるローラ。彼女の仕事を応援するアニーは、ローラが仕事に専念できるように家政婦として子供たちの世話や家事や電話番をする。
そんな暮らしの中で、スージーにお人形を譲ってもらうところでも、黒人の人形を拒絶して白人の人形を取ろうとしたり、小学校では白人の子として通っていたのに母が忘れ物を持ってきて黒人の娘とバレてもう行かないってキレたり、子供の頃からサラ・ジェーンは自分が白人ということにこだわって、母が来るたびそれを壊されるのくり返しのコンプレックスが見えてる。
ローラはスティーブと親密になってとうとうプロポーズされるけど、脚本家の誘いを優先する。そして女優として売れて成功していく。数年が経ってスターになって豪邸に暮らすローラと娘スージー、そしてローラの親友でありメイドとして一緒に暮らすアニーと娘のサラ・ジェーン。
そんな折、数年ぶりにスティーブと再会するローラ。スティーブに惹かれてるすっかり成長した娘スージー。一方で成熟したサラ・ジェーンは相変わらず白人娘として身分を偽って地元の白人の若いボーイフレンドを作るけど、彼女の母が黒人であると知った彼氏は彼女を罵倒して殴り倒して去っていく。
グレつつ独立したいサラ・ジェーンは母には真面目なバイトと嘘ついて、白人としてキャバレーで働いたりするけど、母のアニーが居場所を突き止めてそんなとこで働くなと言いに来るので、結果的に黒人の娘とバレて居辛くなって仕事を辞めるしかない。それが面白くなくてアニーを拒絶して、ある日とうとう家出する。
サラ・ジェーンはニューヨークから遠く離れたカリフォルニアでリンダって名前の白人女性としてキャバレーで踊ってる。アニーは体調が悪くなって衰弱していき、なんとかもう一度娘に会いたいと思うようになり、ローラの助けも借りて、スティーブの知り合いの探偵に居場所を突き止めてもらう。
そしてはるばる娘に会いに行く。母に見つかりトランクを開けてまた逃げなきゃって冷たい娘。私は白人だからもう邪魔しないで、事故に遭ってても出てこないでって拒絶すると、母もショックを受けつつ分かったって言う。最後にもう一度抱きしめさせてって言ってるとルームメイトがやってきて、アニーをメイドと誤解してる。アニーは娘のためにメイドのふりして「リンダ」にそっと別れを告げて去る。
ローラとスティーブがくっついて、彼を好きだった娘スージーが失恋して家を出るって話になったりしてるうち、アニーはいよいよ具合が悪くなってローラに看取られて亡くなる。そしてアニーは彼女の遺言通り黒人としてゴスペルが流れる中を豪華な葬式で送られる。そこへ駆け付けたサラ・ジェーンは、母の棺に駆け寄って「私がママを殺した」って泣きじゃくってる。ローラたちはそんな彼女を抱き寄せると。
『Imitation of Life』
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――と、まあ、こんな話です。とはいうものの本当はパッケージ見ても分かるように、白人女優のローラが成功しつつスティーブとくっついたり離れたり、娘も彼に憧れたり失恋して独り立ち選んだりのサクセス物語っぽいんですけども、そっちと並行して描かれてるアニーと娘の人種問題の方が評価されてるというか。
人種差別がひどい時代だったのでサラ・ジェーンは白人として生きたがった。一方で母のアニーは(どう見ても黒人にしか見えないし)自分の人種を受け入れて誇りに思ってるから黒人として堂々と生きてるし、娘にも自分のルーツを受け入れてほしい葛藤がある。信心深いから嘘をついて(白人として)生きようとする娘を認めたくないのもある。
けれど最後には娘の希望を受け入れて話を合わせて別れると。死ぬ前のベッドの中でも白人として生きようとしてた娘を自分が我がままで引き戻そうとしたとか反省してる。
でもアニー本人は自分は死んでも黒人として立派に送ってほしいから遺言を残してくし、実際ゴスペル(劇中ではゴスペル歌手のマヘリア・ジャクソンが歌ってる)やマーチングバンドやたくさんの黒人の仲間たちに見送られて黒人式の葬式で旅立つ。母のお棺に縋り付いて娘はそんな母を拒絶したことを悔やむと。そんな人種のすれ違い。
見た目は白人なのに、サラ・ジェーンは母がそばにいるだけで自分も黒人として差別されてしまうわけで、母に邪魔されたくない娘の気持ちもわかる。子供の頃から大人になっても、母が娘を心配して彼女を訪ねていくたびに結果的に娘のキャリアとメンツを潰すことになってるわけだし。それこそ黒人の血が入ってるとばれたら若い娘でさえも殴られるくらいの時代の話だし。
そして母が亡くなって結果的にサラ・ジェーンはこの先は自分の望み通り、ローラたち白人に囲まれ白人として生きていくんだろうなと思ったり。改心したとしても見た目が白人寄りなので、母亡き後に一人で黒人社会に溶け込むのも難しいし。
『Imitation of Life』
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まあ時代背景がよくわかってないので私は、アニーが自分の葬式に込めたゴスペルや通りを埋め尽くす黒人の仲間たちが見送る葬儀の壮大さが表現してたものがいまいち理解できなかったりします。なので娘の側の方が単純に理解できた。
最初にも書いたけどむしろ、黒人のアニーと親友と言いつつ白人ローラの彼氏のスティーブも白人だしさ。成功してるローラの周りは白人ばかりで、一方のアニーと他のメイドも黒人ばかりだとか、ナチュラルに人種の壁や立場の違いが存在してるのにいい映画と評価されてるところににモヤモヤしたり。
実際の差別を知ってる世代とかからしたら、それでもあの時代に白人が黒人とここまで親身になってるのはすごいとか時代ならではの評価があるのかもしれないけども。
黒人ハーフは白人に見えるのか?アメリカの闇とPassing
この映画のキモは黒人母のアニーのハーフの娘サラ・ジェーンが白人にしか見えない点。実際、初登場シーンから母が娘を連れてるとメイド扱いされてたりそこは強調されてる。娘はローラたち白人母娘にコンプレックスもあって、白人として生きようとして過去を捨てるけども、母が追いかけてくるたびに現実に引き戻される――という話です。
小学生の時も仕事先でも白人のふりしてるから母が登場しても嘘ついて誤魔化そうとするサラ・ジェーンと対照的に、アニーはいつも「母です」って「サラ・ジェーンは私の可愛い娘」って断言しちゃう。だから騙されてた人は「えっ」てなってサラ・ジェーンもバツが悪くなってそのままバックレの道を選ぶのくり返し。
『Imitation of Life』
※これが血のつながった母娘なわけです。
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つまりは母子が『異人種に見え』て『似てない』という条件下でしか成立しない話であります。特にこの映画は母の肌の色がかなり濃いので、パパの遺伝子がどれだけ入ったら娘は白人の見た目になるんだよと。
ここが一番日本人には興味あるところではないでしょうか。少なくとも私は映画見つつもそれが気になってしまった。ここまで差のある親子はありうるのかと。
その辺をアメリカ人の友達に素直に聞いてみたわけですよ。勿論フツーに聞くと失礼な話なので仲いい人にしかこんな話は聞けませんけども。
そしたらアフリカ人の黒人同士のカップルからも(アルビノではなくて)白い子供が生まれたってニュースがあったので、可能性はゼロではないのではと。何らかの理由でどちらかが白人の遺伝要素を持っているからそうなるわけなので、ことアメリカの黒人ならばもっと可能性としては高くなるとの答え。
アメリカは1960年代頃まで(州による)異人種の婚姻を禁止してたので、昔は公式には白人と黒人の夫婦はいなかったけど、白人主人が黒人の奴隷を強○して子供を作らせて、それを更に奴隷としてこき使ったり売ってたりもしたという歴史があります。そういうのをくり返してきたから、アメリカの黒人は白人遺伝子を持っている人も多いし、逆に白人も黒人遺伝子を持っていたりする。
というか、白人主人と黒人奴隷のハーフの子が大きくなって白人との子を産んで、その子が更に白人と付き合って…と何代かにわたって白人との交際をくり返したりすると白人寄りの見た目になってくるから、南北戦争の頃は、黒人の血が1/8とかなら白人扱いだった地域もあるそうな。その人たちの子孫は白人として生きてる?
そういう条件下なので、親がかなり濃く見えても白人遺伝子を持っていたりすれば、子供に白人の影響が濃く出る可能性はあると。同じ両親の兄弟姉妹で片方に黒人の血が強く出てもう片方は白人の血が濃く出るみたいな兄弟間の差異が出ることもある。
とはいえやはり完全に白人に見えるのはレアで、見た目は完全に白人ぽくても成長すると変わったり、髪が縮れるとかどこかに遺伝要素は残ったりもすることも多いとか。もしくは隔世遺伝で子供が祖父母に似てみたり。
アメリカだと一番多いのは、肌の色が褐色とか、いわゆるコーカソイドではなくてメキシコとかラテン系に見えるとか、いろんな血が混じってて『黒人』『白人』って分けられない感じの人の方が多いって。日焼けした方がリッチだとか健康的とかの価値観もあって焼けてる人も多いから余計分からんとか。
暴露本だの出しまくってるイギリス王子の奥さんは女優時代はメキシコ系自称してたんだかそう思われてたらしいですが、そんな感じ。
この映画も、娘さん役のスーザン・コーナーはメキシコ系の血が入ってるそうで。彼女の母親はローマ カトリック教徒で、メキシコ系とアイルランド系の血を引いており、父親チェコ系ユダヤ人移民でした、だそうな。うーん複雑。
※ちなみにアジア系アメリカ人は、奴隷にはならなかったので血が混じりはしてない代わり、異人種との婚姻禁止の法律により同じアジア人とくっつくことが多かったそうで、移民何世かになっても純アジア顔が多かったりしますが。混じりまくってる他の人種のアメリカ人と比較すると、これはこれで闇です。
そんなわけで、黒人の親からも白人に見える子供が生まれることはままあるので、アメリカにはそういう人を指す言葉があります。黒人のルーツが入っていても白人に見えて、白人の待遇を受けられる人のことを『Passing』って言うらしいです。直訳で通過、合格した人よ。白人としてパスしたって意味。そんな言葉がある時点でヤバいよね。
厳密には黒人以外の人種でも白人に見えれば『Passing』らしいけど、数的にほぼ黒人。ほとんどはこの映画のサラ・ジェーンみたいに黒人の血が入っていながら、見た目が白人寄りなので白人として生活してる人。彼らの中には白人として黒人の地位の向上のために努力した人もいる一方で、差別から逃れるため親やルーツを隠してた人もいたそうで。この映画もその辺を悲哀として描いてます。
とはいうものの、日本でも知られてるアメリカの「黒人の血が1滴でも入ってたら黒人」と言われるワンドロップルールだと片親が黒人はもちろんアウトですし、見た目完全に白人に見えても他の遺伝子が入ってたら駄目。
映画でもサラ・ジェーンの彼氏が彼女の母が黒人と知って、彼女を拒絶し暴力をふるうシーンがありますが、まあそっち側の人からしたら「騙された」って感じになるんでしょうね。
こういうのにこだわる人は、黒人だけでなく他の有色人種にも厳しかったりするので、メキシコ系も茶色だから有色人種だろと差別対象になったりするみたいですし、アジア人も勿論差別対象ですよ。実際に第二次世界大戦の時は「敵国日本人の血が一滴でも入っていたら強制収容すべき」ってなったらしいし。
そもそもこんなルールを言い出したのも、アメリカの白人が奴隷を強○した歴史故で、それこそ1/8だけなら白人でいいとか言い出すくらい混じりすぎるようなことになったのも白人側のせいで、自慢することじゃないんですけども。
たまたま白人が強く出ていて自分が白人だと信じてる人たちの一部も有色人種を差別したりしてるわけですが、彼らも遺伝子検査してみると黒人の血が混じっていて「ガーン」ってなったりすることもあるし。
最近は犯罪捜査にも役立ってたりするみたいですけど、アメリカ人がやたらDNA検査が好きなのはその辺のルーツを知りたい気持ちもあるのかもね。日本生まれ日本育ちの過半数の大和民族は大体がやっても想像通りの面白くない結果になりますが。
アメリカの闇としては、黒人の血に関しては白人は畏れているくせに、ネイティブアメリカン(インディアン)の血が入っている(先祖にネイティブアメリカンがいる)というと、ポリコレ的にいい人みたいに通用してるっぽいとこ。
ネイティブアメリカンの血が入っていてもワンドロップルール的には純白人ではないんですが、この場合は有色人種差別は発動しないっぽい。実際これ言った人のほとんどが私には純白人に見えたからいわゆる『Passing』になるわけですが、本人の自称だけなのでほんとに混じってるかなんて分からないし。笑。
どういうことかというと、リベラルの人が「先祖にネイティブアメリカンがいる」って告白してきた例がいくつかあって、最初は「へえー」って驚いてたけど、何度かあると「これをアジア人の私に言うって裏の意味があるのか?」ってこっちもなんか察してくる。
「黒人の友達がいる(から僕は差別主義者ではない)」に近い自己弁護的なニュアンスを感じるというか。有色人種の血が入ってるからアジア人を差別しないよみたいな。
もしくはアメリカは先住民から奪った土地なわけで、その歴史というか侵略して奪ったことに負い目があるため、彼らの血が入ってる=受け入れられた存在、みたいに考えてるんではと。
しかし奴隷の過去はないにしろ、彼らの血が混じってるって、やっぱ無理に侵略してるし強○したとかでは――みたいにこっちは連想しちゃうからね。アメリカ人が言おうとしてるニュアンスと、純アジア人の私が受けるニュアンスにはかなり剥離があるってことに彼らは気づいていない気がする…。
まあこの部分は私の推測なので、アメリカ白人の言う「先祖にネイティブアメリカンがいる」の正しい解釈を知ってる人いたら教えてください。